たまふす記

tamavskyのA面

もし 君の呼び声に誰も答えなくても~映画『タゴール・ソングス』鑑賞記録

※ドキュメンタリーなのでネタバレというほどではないですが、詳細に映画の内容に触れています。未見の方はご注意ください。

 

先日、近所のシアター付きカフェ「キノコヤ」さんでの上映会に足を運んだ。
上映作品は佐々木美佳監督『タゴール・ソングス』。

こちらが予告編。

 

恥ずかしながら、私はタゴールという人について全然知らなかった。

ラビンドラナート・タゴール。アジアで初めてのノーベル賞文学賞)を受賞した偉大な詩人で、彼は詩だけでなく多くの歌も残した。そしてその歌、"タゴール・ソング"が現代に至るまで人々に歌い継がれている。子供向けのタゴールの歌の学校もあり、それは特別な音楽教育というよりは特に女の子を中心としたお稽古事なのだそう。

インド国歌"Jana Gana Mana"も、タゴールの作詞作曲。
バングラデシュ国歌"Shonar Bangla(我が黄金のベンガルよ)"も、詩はタゴールによるものだ。これだけでも、ベンガル人にとって彼がいかに特別な詩人なのか伝わるはずだ。

映画の冒頭には「今から百年後にわたしの詩の葉を心をこめて読んでくれる人、君はだれか」(「百年後」)という詩が引用され、それに応えるようにして多くの人々が彼の歌を愛する姿が映し出され、さらに一人ひとりの人物の抱える現実とタゴールへの想いを掘り下げていく。

 

ベンガルの人々が幼いころから耳にし、口ずさみ、学ぶタゴール・ソングだが内容は哲学的で、現地インタビューでは「偉大」「全てを学んだ」という称賛の声だけでなく「理解が難しいこともある」「年を重ねると意味が変わってくる」といった声もあった。
歌というのは本当に強いパワーを持っていると改めて感じる。世界的に評価されるような偉大な詩人の思想も、歌となれば子供でも味わい、楽しむことができる。楽しいことはなかなか頭から離れないから、一緒に言葉も彼らの血肉になるのだ。

インド映画といえば派手な歌とダンスを思い浮かべる人が多いと思う。感情を表現することと歌とが強く結びついた国民性なのだろう。この映画でも多くの人が歌うが、感情を爆発させる人は少ない。一つ一つの音を大切に、詩を味わい、詩から学び、歌を自分のものにしようという内省的な営みがそこにある。

 

街頭でのインタビューを受けている人たちがその場ですぐに歌ってくれるのが素敵だった。上映後のアフタートークで監督がおっしゃることには、みんなフレンドリーで、お節介なのだそうだ。

うちの子はとても上手に歌うよ、とお母さんに促されて幼い男の子が歌い出したときはびっくりした。本当にとても上手だったし、堂々としていた。
私が組んでいるバンドのボーカルはとても歌が上手なのだけれど、どうしてそんなに歌が上手なんですかと問われ「小さいころからとにかく大きい声で歌っていた」と答えていたのを思い出した。
路上でもどこでも歌える空気はやっぱり日本にはないもので羨ましく思う。あの地には多くの名シンガーが眠っており、タゴール・ソングを歌い継いでいるに違いない。

実際、映画には音楽家たちも多く登場する。タゴール・ソングを専門とする歌手、タゴール・ソングに力を入れるレーベルオーナー、タゴール・ソングの師匠と弟子、シンガー志望の学生。さらには、ラップという新しい詩を生み出す表現に向かう者もいた。タゴールのTシャツを着てラップをする青年。心を慰める者もいれば、怒る力を与えられた者もいる。

 

興味深いのは、タゴールがこれだけ偉大な詩人でありながら、高等教育を受けた者や文学・音楽を志す者たちだけの権威となることなく、市井の人々に親しまれていることだ。

私はタゴールについてまったく情報を入れずに映画を観ていたので、インタビューでも「彼は悲しみの中から詩を生み出した」と語られるがその悲しみが何なのかわからなかった。
裕福な家庭に生まれ、留学も経験し、地主として仕事に困ることもなく、そんな人が一体どんな経験をしたのだろう、と思っていた。

映画の後に監督に質問したことや調べたことでタゴールの人物像がより立ち上がってきた。

詩人として早々に目を出したタゴールだったが、しかし当時は文人として生きていくことは職業たりえなかったので家族は心配し、タゴールを弁護士にさせるためイギリスに送りだす。しかし型にはまった教育に元々なじむことのできないタゴールはイギリス留学に挫折し、学位も名声も持たずに帰国。夢破れた青年に対して父は結婚とタゴール家の領地であるシライドホの領地管理の仕事をタゴールにあてがった。

(中略)

社会、家庭、創作、そのどれもにおいて一見順風満帆のように進んでいくかのように思われたタゴールの人生ではあるが、1902年に妻ムリナリニの死を経験し、さらに立て続けに愛娘や父の死をもが彼の人生に降りかかる。その死の影を振り払うかのようにタゴールは1905年のベンガル分割反対運動の中心人物として政治活動を行うが、それも内部抗争を目の当たりにし前線から遠ざかるのであった。

*1

周囲の期待に添えない苦しみ、愛する家族との死別、政治や仲間への失望など、彼は決して順風満帆、幸せいっぱいな人生を歩んできたわけではなかった。しかしその苦しみ、それを乗り越えようという力、自然と芸術への愛は、当時から現代に至るまでベンガルの人々の──さらにはあまねく世界中の人々の心に普遍的に存在しているのだ。

映画に登場する人々もそれぞれ悲しい過去や苦しい現実を背負っていた。それに立ち向かい、心を奮い立たせるように、美しい情景と人の進むべき道を歌う。
ベンガルの自然はとても美しい。熱い風や汗ばむ身体、土埃を感じるような映像も映画の見どころだ。

 

コルカタの大学生・オノンナさんが、進路をめぐって親と激論を交わすシーンも印象的だった。ショッピングして自撮りして、夜はクラブへ出かけて……という現代の若者オノンナさんも、タゴールの思想に共感している。きっと、新しいものにも古いものにも見境なく、非常に知的好奇心が旺盛な人なのだ。
インドもまだまだ男女の格差が大きく、古いしきたりが残る国である。彼女の父親も(大学へ進ませてくれるほど寛容ではあるものの)やはり伝統的な家族観を持っていて、それはあるいはその文化においては〈現実的〉な考え方と言えるのかもしれなかった。
でもオノンナさんは、世界を見たい、世界を広げたいと自分の意見をしっかりと表明する。タゴールの名前を出して。

「お父さんはタゴールのことを忘れたの? タゴールは自分の意志で人生を突き進んでいったのよ。私だってもしかしたら、タゴールみたいになれるかも」

*2

このシーンでもう一つ印象的だったこと。
オノンナさんの父親は「世界は自然に変わっていく(が、今はそのときではない)」と主張し、それにオノンナさんは「自分たちで変えるのだ」と反論していた。
古い価値観に縛られている人々は、社会に対してこんなにも受け身なのかと目から鱗が落ちた。社会は誰かがやってきて変えていくもの、そして自分たちは社会を変える人ではない。まるで当事者意識がないのだ。父親も娘も、皆同じ社会の一員であるのに……。

しかし撮影クルーがオノンナさんの家族と仲良くなったことで、彼女は来日の夢を叶えられたのだという。オノンナさんは、タゴールも訪れた日本に興味があった。

タゴールは1916年に初めて来日し、日本女子大の学生の前で講演をしたそうだ。修養会が行われた軽井沢、碓氷峠には胸像が立っている。

東京で仲良くなったベンガル語を学ぶ外語大生・鈴木さんは就職活動中で、リクルートスーツで登場したのだが、オノンナさんは「なぜ正装をしているの?」と聞いていたのが面白かった。日本にもたくさんの格差、時代錯誤な習わしが未だに残り、人々を縛りつけている。
「カラオケに1曲もタゴール・ソングがないなんて!」と驚いているのも可笑しかった。

 

この映画は全編を通してたくさんの歌で溢れている。人が歌っているときの顔って神秘的な美しさがあって好きだな、と思った。
先述の道端で歌う少年もそうだし、路上生活を脱して勉学に励む青年・ナイームさんが電車の屋根の上で仲間と歌う姿、タゴール・ソングの修行に励むミステリアスな女性・プリタさんが師匠のそばで歌う姿、オノンナさんが空港で鈴木さんへ電話越しに「時々あなたに会えるけど」を歌う姿。
遠くを見ているような、何かをじっくりと考えているような、祈るような真摯な眼差しが忘れられない。
それはタゴールの生きた過去、歴史に想いを馳せているようでもあり、自らの突き進む未来を見据える決意の表情のようでもあった。

「もし 君の呼び声に誰も答えなくても ひとりで進め」(「ひとりで進め」)